目を閉じて象をなでる

雑談ではギリギリ出てこないような思いつきとか、考えなどを。全体としては人生を祝福する方向性でまとめていきます

痛みについて

 観ようと思って忘れていた三宅監督の『ケイコ 目を澄ませて』がアマプラに来たので観る。耳の聞こえない女性ボクサーの話。この“耳が不自由である”という設定が、プロットとそれほど密接には関係していないんじゃないか・・・と思って観ていた。つまり、これって単なる無口な女の子でも成立する話じゃない? と思ったのだ。しかし鑑賞後、ケイコがボクシングのイヤなところについて「痛い」と(手書き文字で)語るシーンを思い出して、考えが変わった。

 

 どういうことか。まずは健常者のボクサーをイメージしてほしい。彼女ないし彼は、客の歓声とかシューズの擦れる音とかレフェリーの声とかゴングの音とかセコンドの大声とか、ありとあらゆる物理的・非日常的な音を聞いているわけだ。そのぶんアドレナリンも出るし、殴る音も殴られる音も、そのつど空間へと拡散していく。それに比べて耳が聞こえないボクサーはどうか。いまつらつらと挙げた音はひとつとして聞こえない。すべては静寂である。つまり、「殴られる」感覚が、我々の想像するよりずっとダイレクトに感じられるのではないか。ごく端的に言い換えれば、ケイコのほうが健常者のボクサーより「痛い」のではないか、と思ったのだ。

 

 でも、映画的にそこのところがわかりやすく描かれてはいない。たとえば、いかにも顔がボコボコになっていたりとか、やたら血が出たりとか、それでケイコが泣いたりとか、そういうシーンは皆無である。言い換えれば、ケイコの痛み=恐怖をあえて印象づけないような描写になっている。だから、劇中ほとんど唯一の意思表示が「痛いのがイヤだ」であることに意外さを感じて、こういう感想に至ったわけだが・・・

 

 ケイコの痛みは絶対にわからない。ましてや僕自身はどうか。ありとあらゆる痛みを予防的に排除できるテクノロジーのなかで生きている。にもかかわらず「それはそれとして」、みんな無名のまま共に生きることができる。それはセグメントである。でも、そんな一見わかちがたい構造のなかに、ある種の隙間のようなものが常にある。そのことに気づかせてくれるのが優れた作品の役割で、隙間を埋めていく実作業が、鑑賞者たる自分に期待されているのかもしれないと思った。