目を閉じて象をなでる

雑談ではギリギリ出てこないような思いつきとか、考えなどを。全体としては人生を祝福する方向性でまとめていきます

目を閉じさえすればよい。すると人生の向こう側だ(2024.1.7)

 膨れ上がったまま放置していた仕事におそるおそる手をつけ始める。もう少し前倒しにしたり、あるいは毎日こんな誰も読まないブログを書く20分を充てたりとかすれば、こうも追い詰められることはなかった。私の人生は追い詰められている時間が多すぎる。弛緩している時間が長すぎるせいだ。それでも少し目を瞑りさえすれば、世界は良い面ばかりだと思う。今日、喫茶店で隣り合ったギャルの女子大生(単位の話をしていた)がずっと編み物をしていてよかった。そのあと立ち寄った本屋で、これもまたギャルの女子高生(たぶん)が、友達にオススメの新書や新刊の話をまるでコスメのように紹介していて、これもよかった。久しぶりの友人から飲みの誘いがあって、これも嬉しかった。大江健三郎の小説には、イェイツならイェイツの、ダンテならダンテの詩篇が唐突に引用されては、そこに自らの希望や行き詰まりを見出すという箇所が散見される。いま読んでいる『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)←タイトルかっこいい〜😁』にもやはり同様のくだりがありつつ、しかし一応まじめに読むと、たしかに何とも時空を超えて胸に迫るものがあると感じる。以下は3.11直後の流言飛語における後期高齢者たる主人公が不意に出会い直してしまい、情けなくウーウーと涙を流すに至った詩。

 

 セリーヌの『夜の果てへの旅』のエピグラフを思い出した私は、凡人らしくとくにウーウー泣くことすらできず、300gのハンバーグを食べてアメトークの読書芸人の録画を観るばかりでした。ヒコロヒーさんがめちゃくちゃ好きです。