目を閉じて象をなでる

雑談ではギリギリ出てこないような思いつきとか、考えなどを。全体としては人生を祝福する方向性でまとめていきます

階段から落ちる無能(2024.3.10)

◆友人と飲む。結婚生活とか子供とかマイホームとか、その年代らしいライフステージの話はするが、けっきょく行き着くところはいつもの、音楽やろうぜ! となって別れる。いきり立って、よーし明日からDTM復活だ〜と思いながら駅の階段を駆け降りたらそのまま転げ落ちた。ざわつく客。恥辱とショックを隠してベンチに座る私。翌日になってから確かめたらあちこち青あざができ、歩くと痛くて、右腕の関節がカクカク鳴るようになってしまった。腱(?)がおかしなことになっている気がする。賭けてもいいが、それでも僕は病院に行かない。

 

◆自分で企画を作って動かないと仕事が始まらないのだが、手元のプロジェクトがあまりにも未知かつ複雑でまったく動けず、3ヶ月近くなんの企画も作っていないという恐るべき野蛮状態・逆搾取労働者になってしまっている。だがいつやれと? あと1.5倍くらい普通の処理能力があればもう少し楽に生きられるのに。できることなんて決まっている。明日から突然スーパーマンになれるわけでない。変えられるのは解釈だけだ。ほぼ。

 

何度も何度も俺を振り向いていた犬。トリミングしたら2006年くらいのインターネットの画像になった。

 

タイ料理での絶望から見える市井の真実

 AIが勝手につけたタイトルです

 

◆寝不足の状態で「落下の解剖学」を観に行き、案の定30分くらいぐっすり眠ってしまう。映画館で寝たのなんて初めてじゃないか? ハッと目を覚ましたら法廷のシーンだった。本当は法廷のシーンなんて大好きなのに、なぜ揉めているのかよくわからなくて自分にガッカリした。感想なんて言いようもない。そのあと入ったタイ料理屋でよくわからない太麺の辛くて油っこい焼きそばを食べたら、30分後にこの世の終わりくらい腹を壊して、何もかも救いようがなかった。ここ2ヶ月めちゃくちゃ仕事してて追い詰められていた反動がズドドと出たのだろう。そう、めちゃくちゃ頑張って本を作ってたのです。聞くところによると、著者が担当編集=僕の発狂を心配していたらしいが、発狂するほど真面目でないので大丈夫ではあるものの、今回も各方面に迷惑をかけまくりながら校了した。反省したいのだが暇がない。作った本を売るためのイベントを仕掛けなければならない。マスコミを呼ばねばならない。気づかれなければ存在しないのと同じことだ。

 

◆一方で、存在するけれど気づかれない、という領域も大事にしたい。このブログをさしたる理由もなく書き続けていることとか。誰に取ってもどうでもいいというあり方もまたよし。そもそも長らく市井とはそういうものだったのだと思う。

 

◆池袋の高い階で新しい企画の打ち合わせ。新しい企画の打ち合わせはいつも楽しい。一生新しい企画の打ち合わせだけしていたい。この日は主に「楽しいゲームってどう生まれるか」という話。打ち合わせが終わって次の打ち合わせに向かいながら、やっぱ遊びと仕事ってかなりの部分トレードオフなんでないかい、と思った。そのようにしてつらく、くるしい2ヶ月間を私は過ごしたのです。

2択(2024.2.21)

 憂鬱なのはヒマだから、というのは言い過ぎにせよ、ヒマは憂鬱の十分条件ではあると思う。だから忙しければまず憂鬱にはならない。にもかかわらずここ3週間というものくそ忙しいのにひどく憂鬱で、自己肯定感がずっと地の底をさまよっており、この気分って両立するんだと思いながらSpotifyで環境音(森とか川の音とか)を聴きながら働いていた。「これちょっと病院行ったほうがいいかな」と思うこともあったのだが、何しろ3大欲求が問題なさすぎて、これなら大丈夫だろうという結論に落ち着く。単細胞でよかった。しかしなぜおれは憂鬱なのだろう? 無理をするか諦めるかの二択をずっと突き付けられているかのような気分があるから? 

よく晴れた休日、ふと見つけた火の見櫓に登ったけど3時間後に打ち合わせ(7時間)が控えているので極めて低いテンションで撮った写真

 

低気圧の気分も休みのときはわりと好き(2023.2.5)

 有給をとった。ソファーに寝っ転がってアルヴァ・ノトをかけながら横向きの視界に映る雪をえんえんと眺めていると、無為だって充実なのだと久々に思えて少し気分がラクになる。ここ3ヶ月くらいやたら追い立てられるような気分が続いていたのだった。その気分も、状況というより甘ったれた自分がつくりだしたもので、というのは「追い立てられている気分というのは、自分に残されたさまざまな可能性を同時に検討しているから起きるものであり、その意味で向上心があると言えるわけで、だから俺はまだ無限の可能性があるはず」というものだったから、そんなもんないほうがいいに決まっている。夜は妹尾河童のレシピでピエンロー鍋を食べる。椎茸と白菜と肉。素朴でうまい。まっとうなメシという感じがする。でももしTwitter上で「素朴な味わいの鍋レシピです」みたいな、正直な紹介のされ方だったらたぶん試していないだろうと思う。ディテールは忘れたけど、このレシピも「鍋の概念が変わる」みたいなバズ文法に乗せて流れてきたのを試してみようと思ったのだった。不感症は確実に進んでいる。タイトルはAIがつけました。

ぴえん

 

胆力、時間、ハイドリヒ(2024.2.4)

◆イベントの楽屋でいつもどう振る舞えばいいのか分からず、何となくニコニコしながら意味もなくゆらゆらしていることが多い。先日もそうだったのだが、そんな自分を尻目に、某広告代理店の人が自ら登壇者に話しかけまくって自己紹介とヒアリングをし、あまつさえ一緒に写真まで撮って、イベント後SNSで繋がる約束までシームレスに話していてすごかった。胆力がちがう。しかし、ああなれなくても落ち込むことはない、と三十路をとうに過ぎた自分は知っている。弱者の戦略というのがあるにはある。

 

◆仕事のために読んだ高橋祥子『生命学的思考』によれば、時間の認識で大切なのは、自分の加齢と行動を照らし合わせて認識することだという。早い話が、自分が何歳であろうと大切な出来事をギュッと詰め込めば、後から振り返ったときに「たった1年なのに数年ぶんは生きた気がするなぁ」と思えるというのだ。言い換えると他人の時間の使い方と自分を比べるなよ、ということでもあるらしい。・・・というふうに文脈を抜き出して圧縮するととたんに凡庸になるが、これはけっこう面白い本で、生命科学と言いつつわりと自己啓発的本に元気を出せ、もっと頑張れと言ってくれる本です。マジでありえないくらい日々が飛ぶように過ぎていくので何となく気になったくだりを書いてみた。

 

◆『HHhH』読み始める。この感じでずっといくのキツいなぁと思っていたら、100ページを過ぎたあたりからいつの間にか入り込んでいる自分に気づく。メイキングを小説にしてしまうという手もあるのか。それにしてもハイドリヒのことなんてひとつも知らなかった。

1分半くらいできた(2024.1.29)

 あまりにも時間が飛ぶように過ぎるのが恐ろしいのと、夜になるととにかく気分が落ち込むので、創作を再開することにした。寝る前に20分くらい。なんの創作かというと、去年バンドを始めたので位置付けとしては楽曲のデモということになるのだが、メンバーの家族に次々と子供が生まれることになってしまい、バンドそのものが冷温停止してしまった。なので差し当たり自分で聴く用ということになるんだろう。で、久しぶりに再開してみると、耳は肥えているが腕は落ちているので、つくる端から失望して手を止めることになる。これがダメなのだ。落ち込んでないでやれ。ダメでも完成させろ。雑に終わらせてから考えろ。仕事じゃないんだから。と言い聞かせながら「毎日進捗」を合言葉につくっている。ライムスター宇多丸がカレーとヒップホップは似ていると言っていたが、もう少し広く、DAWと料理は似ていると思いたい。それも、時間を巻き戻したりなかったことにして何度でもやり直せる料理。

ぶん(2024.1.24)

 上手い下手とか正しいとかじゃなくて「この人は本当にそう思っているんだなと思える文章」が好きなのだが、単に本音を開陳したり、資本主義リアリズムに耽溺したりしているのとは違う、……というニュアンスを伝えるのが難しい。かといってただ素朴さを愛でたいわけでもない。せんないことである。あと去年、まさにそういう志を持った人と出会うことができ、「この人はまだ無名だけど、絶対にたくさんの読者を持つ書き手になる!」と意気込んだものの、すぐに連絡が取れなくなったりしたので、文が人なり、とまで言うつもりはまったくないのだけど……。

 

ハイエイタス・カイヨーテ新曲、相変わらずすごすぎ